― 2次元と3次元のあいだで考えたこと ―
先日、大阪の国立国際美術館で開催されている「笹本晃 ラボラトリー」を再び訪れました。
その中で印象に残ったのが、ドーナツの穴についての話です。
ドーナツには穴があります。
当たり前のことなのですが、少し考えてみると不思議な構造をしています。
ドーナツの真ん中にある穴は、ドーナツの内側なのでしょうか。それとも外側なのでしょうか。
何を当たり前のことを、と思われるかもしれません。
しかし、この問いについて考えているうちに、2次元と3次元の違いが気になり始めました。
2次元の世界にドーナツを置いてみる
紙にドーナツのような輪を描いてみます。
真ん中に穴のある円です。
そして、その紙の上だけを移動できる小さな虫が、輪の真ん中にいると想像してみます。
虫が輪の外側へ出ようとすれば、必ず描かれた輪を横切らなければなりません。
2次元の平面では、輪の内側と外側は分けられているのです。
ところが、これを3次元のドーナツに置き換えると、少し事情が変わります。
ドーナツの中央の穴から上へ移動すれば、ドーナツそのものを横切ることなく外側へ出られます。
反対に、外側から中央の穴へ入ることもできます。
つまり、ドーナツの穴の空間は、外側の空間とつながっています。
2次元では分けられていた場所が、3次元では連続した一つの空間になる。
形としてはどちらも輪なのに、空間のつながり方が違うのです。
ドーナツは2次元では成立しないのか
ここで、もう一つ面白いことがあります。
数学ではドーナツの表面のような形を「トーラス」と呼びます。
実は、このトーラスの表面そのものは、数学的には2次元として扱われます。
表面上を移動するだけなら、前後と左右という2つの方向があればよいからです。
しかし、その表面を切ったり、重ねたりすることなく、普通の平面にそのまま配置することはできません。
つまり、2次元の輪は描けても、3次元のドーナツの表面が持つ構造を、普通の2次元平面の中にそのまま成立させることはできないのです。
ここに、単なる見た目の違いではない、次元の面白さがあります。
ドーナツを紙に描くことはできます。
でも、紙の上に描かれたドーナツと、目の前に置かれたドーナツは、同じものではありません。
描けることと、その空間の中で成立することは違う。
そんなことに気づかされました。
内側と外側は、どこで決まるのか
普段、私たちは内側と外側を明確に区別しています。
部屋の内側と外側。
身体の内側と外側。
容器の内側と外側。
しかし、ドーナツのような構造を考えると、何を基準に内側と呼んでいるのかが気になってきます。
ドーナツの穴は、形の上では内側に見えます。
でも、その空間は外の空気とつながっています。
身体についても、似たような疑問を考えることができます。
例えば、口から食道、胃、腸を通って肛門へと続く消化管です。
これらは身体の内部に存在する器官ですが、消化管の内腔そのものは、口や肛門を通じて外界とつながっています。
もちろん、医学的には消化管は内臓ですし、身体の内外を区別する解剖学的な意味もあります。
それでも、空間のつながり方という視点から見ると、普段考えている内側と外側とは少し違う姿が現れます。
内側であることと、外側から切り離されていることは、必ずしも同じではない。
この違いは、なかなか興味深いものです。
3次元を2次元で説明するということ
さて、このことを考えているうちに、普段のイラストレーション制作にも思いが及びました。
私たちは、立体的な構造を2次元のイラストとして表現する仕事をしています。
例えば、医療機器のカテーテル。
細長い管の断面を描けば、円の内側と外側を簡単に区別できます。
しかし、実際のカテーテルは3次元の構造を持っています。
断面では閉じた円に見える部分も、長手方向には管腔として続いています。
つまり、一枚の断面図だけでは、その構造のすべてを伝えることはできません。
そこで、断面図を使うのか、立体図を使うのか、あるいは一部を切り開いて内部を見せるのか。
何を理解してもらいたいのかによって、表現方法を選ぶ必要があります。
ここで重要なのは、単に正確な形を描くことではありません。
本来3次元に存在する構造のうち、何を2次元の中に残し、何を別の表現で補うのか。
その選択こそが、イラストレーションの重要な役割なのだと思います。
描くことは、世界を置き換えること
私たちは日常的に、写真や図面、イラストを見ながら3次元の世界を理解しています。
しかし、それらは現実の空間そのものではありません。
現実にある形や構造から、必要な情報を選び、別の形に置き換えたものです。
ドーナツを円として描くことは簡単です。
けれども、その穴がどのように外の空間とつながっているのかを伝えようとすれば、表現にはもう一工夫が必要になります。
見えている形を写すことと、形の成り立ちを伝えることは違うのです。
だからこそ、イラストレーションは面白いのかもしれません。
描くことによって、見えなかった構造が見えてくる。
一方で、描き方によっては、本来つながっているものが切り離されて見えてしまうこともある。
どこに線を引き、どこを省略し、何を強調するのか。
その一つひとつの判断が、見る人の理解を変えていきます。
ドーナツの穴から考えたこと
ドーナツの真ん中は、内側なのか外側なのか。
そんな小さな疑問から、空間の次元、身体の構造、そしてイラストレーションの役割についてまで考えが広がりました。
普段は何の疑問もなく見ているものも、少し視点を変えるだけで、思いがけない姿を見せてくれます。
私たちは世界をそのまま見ているようで、実際には自分たちの知識や経験、そして表現の方法を通して理解しています。
だからこそ、見えているものを疑ってみる。
「どう描くか」を考える前に、「そもそも、これはどういう構造なのか」と問い直してみる。
そんな姿勢を、これからの制作でも大切にしていきたいと思います。
展覧会情報
「笹本晃 ラボラトリー」
会場:国立国際美術館(大阪・中之島)
会期:2026年7月19日〜11月3日
※本記事は、展覧会の鑑賞をきっかけに考えた個人的な考察であり、作家による作品解釈を示すものではありません。

